歎異抄(3)

■第二章■ ・・・その2・・・
〜地獄は一定すみかぞかし〜


【第二章】その2
                                絵:御絵伝より                            
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。
そのゆえは、自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

 
 【住職による現代語訳】

  私、親鸞の立場は「ただ念仏して、阿弥陀仏にたすけて頂くのだ」という法然先生の言われたことを受け取って信じている他には、何も格別なわけはないのです。
 念仏申すことは、本当に浄土に生まれる種になるのか、はたまた、地獄に落ちてしまう原因になるのか。そんなことも、私は全く知りません。
そしてさらに、たとえ、法然先生にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしても、後悔なんて致しません。
なぜなら、念仏以外の修行に励んで仏に成ることのできる私であったなら、念仏して地獄に落ちれば、 あざむかれたという後悔もするでしょう。
しかし、私はそのような者ではなく、どのような修行もやり遂げることができないような私なのですから、地獄こそが私の決定的な居場所なのです。

 
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<住職のコメント>

「地獄落ち」という言葉がよく出てくるが、これには背景がある。
京都にいる親鸞の元へ、関東から弟子たちが命懸けで教えを聞きに来られた理由に、当時関東で積極的な布教を行っていた日蓮の説法で沸き上がった疑問がある。
日蓮は他宗派を軒並みに批判して、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と言い、特に「念仏者は無間地獄におちる」と説いて、関東の念仏者の間に動揺を広げていたのだ。
だからこそ聞きに来た同行(どうぎょう;注) 達を前にして、親鸞は、「地獄になど落ちないよ」なんていう、あらゆる人間の奥底に潜む上昇志向をくすぐるような、甘っちょろいことは決して言わず、「地獄落ちでも構わない」と言い放つ。
恐ろしいほどの「仏(ぶつ)の教え」に対する信頼である。

注;どうぎょう=親鸞は弟子という言葉を上下関係だと嫌い
          「同行」同朋(どうぼう)という言葉を良く用いた。

―――以上『顛倒』99年6月号 No.186より―――

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