正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第九回
無邊光(むへんこう)
 解脱(げだ)の光輪(こうりん)きはもなし
 光觸(こうそく)かふるものはみな
 有無(うむ)をはなるとのべたまふ
 平等覺(平等かく)に歸命(帰命)せよ


先ず簡単に訳してみましょう。
 解脱の光の輪(の広がり)は際限なく、その光に触れた者はみな、有無の意識から離れられると説かれます。 (だからこそ)この平等な覚りに帰命しなさい。

 解脱(げだ)とは、煩悩の束縛から解放されて自在な状態。人をして解脱せしめる功徳を具えた阿弥陀佛の光は、車輪のようにどこ までもころがり、どこからどこまで照らすという辺際がない。すなわち、無辺光です。

 有無(うむ)とは、有る無いに捉われている人間の普通の意識の事です。 この有無の見から、解放される事が、佛教の要点の一つです。
 例えば「私」。私たちは当たり前のように「私」は有ると思っています。 でも佛の眼(真理)から観れば、「私」という固定した実体は無いのです。 在る状況下で、たまたま「私」なのです。それを佛教は「縁起(えんぎ・縁によって起こる)」と言います。
 それは、現代の科学でも証明されています。 分子生物学というおもしろい学問があります。 分子とは、炭素や酸素といった、目には見えない小さな、物質を構成する要素のことですが、 現代の学問では、私たちの身体を作っている分子を追いかけることができるのです。 調べてみると、なんと、私たちの身体を構成する分子は、ほんの数か月で全て入れ替わるのです。 私たちは、「私」とは固定して有る、と思っているのですが、実は分子レベルでは入れ替わっている、 すなわち、細胞レベルでは、一瞬一瞬死に替り生まれ代りしているのです。
 鎌倉時代の歴史家、鴨長明の随筆『方丈記』の有名な文章、 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。まさに、そのものです。
 その間違った有無の意識に執着して、他人や自分自身をも、能力が有る無いとか、 美しさが有る無いとか、出自が有る無いとか固定して拘って、差別し裁く、 これが人間の姿です。その姿を知らせ、それは真理から遠いと、教えるのが佛教です。
 和讃に戻りましょう。
 阿弥陀佛の際限ない光に触れれば、誰もが執着に惑わされた誤ったものの見方から解放され、 縁起の道理に適った正しいものの見方ができるようになるといわれます。
 だから、平等無差別の覚りを得て、一切の人々を分け隔てなく、 水平に救う働きである阿弥陀佛に、全てを馮(たの)まずしてどうしておられましょうか。



―――以上『顛倒』15年8月号 No.380より ―――

          

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