正信偈講話

『顛倒』連載版〜2014年11月開始〜


 
『顛倒』連載 第七回
gokou五劫思惟之攝受(ごこう しゆい し しょうじゅ)
重誓名聲聞十方(じゅうせい みょうしょう もんじっぽう)

(起こした誓いを)五劫(という長い時間に渡って)思惟し(選びに選んで)受け取られ、 (南無阿弥陀佛という)我が名、我が声が、遍く十方に聞こえるように、重ねて誓われた。

「劫」(こう)は、佛教の説く時間の単位です。インド語では、「kalpa(カルパ)」です。 現代の日本語でも「未来永劫(みらいえいごう)」「億劫(おっくう)」など、ここからきた言葉がありますし、 有名な落語『寿限無』にも「五劫のすり切れ」として登場します。古来から日本文化にしみ込んだ概念です。
佛教の著名な論文『大智度論』には、「1辺40里(現代の20km)の岩を100年に1度、天女が舞い降りて羽衣でなで、 岩がすり減って完全になくなるまでの時間」というたとえ話や「1辺40里の城にケシ粒がぎっしり詰まっており、 その中から100年に1粒ずつケシ粒を取り出していって、城の中のケシ粒が完全になくなるまでの時間」などのたとえ話があります。 誠に佛教の世界観、宇宙観は希有壮大で、とにかく「長い長い時間」を意味する言葉です。

 阿弥陀佛の本願は、長い時間をかけて起こされた願いではなく、世自在王佛の元で、 諸仏の浄土、国土人天の善悪を観て、法蔵菩薩に起こってきた願いが、長い長い時間、 検討されつくして、このこと一つと選び取られた願いなのです。 親鸞聖人の言葉では、「ただ、南無阿弥陀佛」です。

名聲聞十方(みょうしょうもんじっぽう)
この辺りには、南無阿弥陀佛の躍動感が感じられます。 南無阿弥陀佛の言葉の意味を超えて、さらにダイナミックに味わいが表現されます。 「ナムアミダブツ」は阿弥陀佛自身の名のりであり、その声であり、その声は十方に聞こえ、 聞く者がおり、聞く声があり、聞く者の声でもある。称名とは、私の声を借りた、阿弥陀佛の声でもあります。

阿弥陀佛―南無―阿弥陀佛
我々が、ナムアミダブツ申すとき、それは、それに先立って、阿弥陀仏が我々に南無して下さっているのです。 先月も申しましたが、我々の思い、願いに先立って、既に阿弥陀佛が我々、衆生のために長い長い時間をかけて、 大きな修行をして下さっているということなのです。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば ひとえに親鸞一人がためなりけり---『歎異抄』


 五劫思惟の願=阿弥陀佛の本願を、親鸞は「自分一人のためだ」と言われます。 同じように、昭和の大谷派教学者、曽我量深師は、「阿弥陀佛を救うのは、私だ」。と言い切られました。 傲慢に聞こえるかもしれませんが、そうではありません。 法蔵菩薩は「全ての人を救う」と誓い、それを成し遂げて阿弥陀佛に成られたのですから、 この私が救われなければ、法蔵菩薩は阿弥陀佛に成れないわけです。だから、「私一人」なのです。

―――以上『顛倒』2015年6月号 No.378より ―――

          

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