○ お布施を考える [支えるものは支えられる] 空海・弘法大師著『性霊集』 「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定めて道にあり。」 上記の論に併せ、釈尊の覚り「法」〈縁起・空〉の真理は、人間社会を含む一切を貫徹しています。如何に正しくとも、物事は伝える人も支える人も存在しなければ成立しません。人は何かを信じ、支え合い行為します。その行為を「業縁」と呼びます。悪業は悪果を呼び、善業は善果を得ます。個人の行為は自業自得で終わります。社会もまた個々の業縁が重なり合い、共業、共果を得ます。 社会が悪いというのは、それを容認する人々が多数派を占めているからです。宗教の世界も同じです。信仰はない、しかし習俗として儀礼を執行し導師を支える。その導師は如何なる人からも問わず、この行為も業果として他の原因になり自分に還ってきます。人は己の器量で分相応に生き、そして死を迎えます。布施〈財施〉の業も分相応に望んで尽くし、業果を得て下さい。 私は信仰の有無を問わず、その人の生き方によって判断しております。仏法を信じていると自称しながら非仏法的な生き方をする人より、信仰は無いと自称しながら無私の姿で人々に尽くすような人を尊敬しています。何故ならば「法」〈縁起・空〉の世界を無自覚に体現され、人々に接しているからです。私は『観音経』で説かれている「観音菩薩」の再来かと思っているのです。合掌礼拝。 私は人として生を受けた者は、死ぬまで人として悩み、当来社会である彼岸〈理想共同体〉「仏土建立」に励み、死を迎えても尚、それが永遠に生きることになると確信しております。信仰の有無より、死に臨んで何を為したかが人生の「鍵」であります。人は人のために生きることが、自分のためになり、自己を鍛え可能性を拡大すればするほど人の絆が深まります。お布施の論理もまったく同じ。如何ほど、誰に施すか、貴方が決め、貴方が業果を受ければ良いのです。総べて貴方が望んだことなのです。(文責 小谷 静良) [お布施覚書] 《布施とは何か》 そもそも布施とは修行者や寺院、貧窮者などに財物その他の施しを与えることをさします。大乗仏教では、菩薩が行うべき六波羅蜜の行〈布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧〉の第1番目に置かれている。 《三輪清浄の布施》 正しい布施が成り立つ条件は次の三つである。 1、 施す人の心が清浄であること(施者) 2、 受者の心が清浄であること(受者) 3、 施物が清浄であること(施物) 《三つの布施の形式》 布施と言えば、現在はおもに財施(金品など)を指すが、本来は次の3形式がある。 1、 財施(ざいせ)財物を施すこと 2、 法施(ほっせ)仏法をとくこと 3、 無畏施(むいせ)怖れを取り除き、他者の身心を安穏にする
本来、お布施は施主の信仰と所得、僧侶との関係に応じて、自主的にその額を決めるものであり、決して金額が決まっているわけではありません。しかし今は崩れてしまっているが、以前は施主のタイプによっておおよその目安があったようである。
戒名財施 金35万円以上 *居士・大姉の場合(枕経〜火葬供養)執行僧の員数は自由。財施上限無し。
戒名財施 金25万円以上
(文責 小谷静良) |