お葬式を考える
[死を迎えるということ]

【お葬式の形骸化】

 最近、葬儀が「葬式ショウ」になってきているということを、申し上げましたが、それを手をこまねいて見ている既成教団は本当におかしいと思います。がそれと同じくらい、そんなことが成り立っている世間の問題もあるのではと思います。ビジネスなのですから、儲からなければ自然となくなっていきます。ところがそれが流行っている。まさに「形だけやっといてくれればよい」「後々なんて面倒くさい」「死んだらしまいだ」と考えている人たちが、そんなビジネスをはびこらせているのではないでしょうか。同様に「高い金を取る坊主」なんて批判もよく聞きますが、そんなお坊さんには、お葬式を頼まないでもらいたいのです。

【死を迎えること】

 厳しいことを言いましたが、実は誰も心の底では「形だけでよい」とは思っておられないはずです。ところが、けっこうそうなってしまうのは、あまりに日頃の心の準備とか、ものごとの備えが無さすぎるからではないでしょうか。  誰もが、「死」のことなど考えたくありません、「お葬式をどうしよう」なんて思うのは「ゲンが悪い」と考えたくもありません。けれど、永六輔さんもよくおっしゃるように「人間の死亡率は百パーセント」なんです。必ずその時は来ます。いざその時を迎えたときに、何も準備していないものですから、気が動転してしまって、葬儀屋さんの思うがまま、「ハッ」と我に返ったときには、全てが終わっているということなのでしょう。  昔であれば、町に人の交わりがもっとありましたから、当人が心得ていなくとも、近所の年寄りなどが仕切ってくれて、それなりに本来的なお葬式もできたのですが、今は核家族でそんなこともありません。むしろそんなことは煩わしいということでしょう。そうであれば、なおさら、自分自身が心得ていなければならないことです。  いつかはわからないけれど、いつか必ずあることを、見ないでおこう、遠ざけようという私たちの気持ちが、結果として、とても大切なことを見逃してしまっているのではないでしょうか。  私の人生の一大事として、必ずあるその時のために、お元気なときから、信頼できるお寺さん(宗教者)の一人や二人、信頼できる地元のお葬儀屋さんを知っておくことが大切ですし、「ここなら」と思える場所を選んでおくことが必要でしょう。もっとハッキリ言えば、その時のため、ではなく、今を十分に生きる為に、信頼できるお寺さん(宗教者)の一人や二人と縁を持っていただきたいのです。  このHPが、少しでもその縁を開くきっかけになればと願っています。

【病院で死を迎えること】

 さらに、いくら自分自身が心得ていてもそれだけでは不十分です。そうです。その時、私はもう指図できないのですから。日頃から親しい人たちに自分の意思を確かに伝えておくことが必要です。  この時やっかいなのが病院です。最近は病院で息を引き取られることが、とても多いのですが、その時、婦長さんや事務長さんが、身内や親しい人たちに向かって、おもむろにおっしゃいます。「おうちまでお送りしましょうか、それともご自分で帰られますか」と。いくら親しい方であっても、もう亡くなっていますから、抱きかかえてタクシーで帰るわけにもいきませんので、当然「送ってください」と言います。そのトタンに、病院とタイアップしたお葬儀屋さんの寝台車が飛んできます。  前もって決めておいた葬儀屋さんがあっても、「うちに葬儀を引き受けさせて下さい」と粘る粘る。根負けしてお願いすると、やはり「一回こっきり」の仕事になりますから、あまりよい評判は聞きません。そういう会社は、だいたいしつこくて、やれ仏壇、やれお返しの品、やれお墓、そして次の互助会の契約まで押し売りしたりします。こちらは何せ気持ちが動転していますから、ついつい乗せられてしまいます。  時には、仏さんも家にも帰れずに、こちらの方が便利だと、葬儀会館に直行といったことになってしまいます。親族にとってはそれが便利と思うかもしれませんが、ここはいったん家に帰って寝かせてあげるのが本来です。それから、入棺をして葬儀会場へ運んでもらうのです。  ですから、「お送りしましょうか」と言われたときに先ず、それを断って下さい。といっても、何もタクシーで帰る必要はありません、前もって決めておいたお寺さんかお葬儀屋さんに連絡を取って、そこから寝台車をまわしてもらうのです。これで後はもう何の心配もありません。

【枕 経】

 家に帰って寝かせると、先ずお寺さんにきてもらって「枕経」をあげてもらいます。  今はそんなスタイルですが、昔はそういうものではなく、その方がこの世のいのちを終えられる時、いわゆる臨終の時に親しい方が、その方の回りを取りまいて「不断念仏」−絶え間のない南無阿弥陀仏−を唱えたという記録が残っています。その時、壁には南無阿弥陀仏の名号や阿弥陀仏の絵像の掛け軸を掛け、そこから五色の紐を引っ張って臨終を迎えた方に持たせたのです。  それは「臨終来迎」という教えを表現したものです。この世のいのちを終えられる時に阿弥陀仏が観音菩薩、勢至菩薩と共にお迎えに来られて、阿弥陀仏の浄土、大きないのちの世界に迎え取って下さるという「浄土教」の伝統なのです。  また、この伝統は、チベットでは「死者の書」として現代にも受け継がれています。死をま近にした方の枕元で、お坊さんが「あなたの行く場所はこんなところですよ」とお経を読むのです。  そんな伝統が、時間を越え、空間を越えて、今、日本では先程述べたスタイルになっているのですが、そのような伝統を考えますと、日本でも、亡くなる前にお坊さんを呼ぶということが、本来のあり方かとも思います。もちろん一足飛びにそこまでいくことは無理でしょうが、せめて、「危篤のときにお寺さんに一報を入れて下さい」と僕は、親しい方々には申し上げているのです。
                                          (文責 清 史彦)
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